case 4 中田悠太の場合


「中田ー、いるー」

 明日提出のレポートの仕上げをしていたら、ドンドンとドアを叩く音がした。
 呼び鈴を鳴らすなり、携帯にかけるなりすればいいのに決して彼女はそんなことをしない。だってそれはいつも決まりきったことだから。
 最初、携帯電話から聞こえてきた「今日、中田の家行くから」という僕の意思の尊重すらしない一方的な言葉。別に僕はそのことをとやかく言うつもりは無い。だってあのときの石川は妙に無愛想な声をしていた。
 長い間幼馴染の関係でいた僕にはわかる。だって、こういうときの石川は決まって悲しいことが起きたことを表しているから。
 僕はレポートの最後の一文章を打ち込み一つ溜息をつくと、石川が待っているだろう玄関へと向かった。

「はいはい、そんなにドア叩かなくても僕には聞こえているから。それに近所迷惑」
「むー、中田はいつも正論。つまんないー」

 ドアを開けるやいなや石川は僕の言葉を無視して部屋の奥へと歩いていった。
 石川は適当なクッションを見つけ出すとそこに座り持って来たコンビニ袋からのりしお味のチップスを取り出す。

「ねー、何か飲み物ない?」
「ジュース、それともアルコール」
「もち、アルコールのほうよ。てか、今日はアルコールな気分なの。無かったら中田をコンビニまでひとっ走りさせていたわよ」
「はいはい」

 僕からビールの五百ml缶を受け取ると、すぐにふたを開けてごくごくと喉をならして飲み始める。そしてそのまま休むことなく口から離すことなく、石川は缶を傾けたまま。
 結局一息で石川はビール五百mlを飲んでしまった。

「次ー。次のお酒持ってきて」
「良いけど、飲みすぎは身体に悪いって。少しはセーブして飲みなよ」
「分かってる、分かってるってそれぐらい。あたしだってそんなに馬鹿じゃないよーだ」

 石川は次の缶を僕から奪い取り、また飲み始める。だからそんな風に一気飲みしたら身体に悪いって言っているのに。
 だけど今の石川にはどんなことを言っても聞いてはくれないだろう。
 こういうのを長年の経験というのか、それとも幼馴染だから分かる微妙な雰囲気というのかもしれない。

「あぁに中田は辛気臭い顔をしてんのよ。飲むときには飲む、それぐらい空気読みなさいよぉ」
「わかった、わかったからお酒臭い顔を近づけないでくれよ、もう」

 すでに半分出来上がってしまっていた石川は恥とかそんなものはどっかに捨てて僕に抱きつく。
 背中から抱きつかれたもんで肩甲骨の辺りには石川の柔らかい胸があたり、首元からは酒臭い息がぷんぷんする。少しはおしとやかさとかしおらしさとかの一面も育ててほしいと思う。

「ん、よろしい」
「……ったく、それで今日は一体なんの騒ぎなんだい。石川が意味も無く騒ぐことなんてないだろう」
「ぐぁ。うー、なんでこういうことに関して中田は勘が鋭いのよぅ」

 抱きつくのをやめた石川はさっき開けたポテトチップスを食べながらジト目で僕を見る。

「そりゃ、幼馴染だからね」

 僕の簡潔かつ唯一の答えに石川は少し呆れたような表情を浮かべ、またビールに手を伸ばす。
 ごくごくとビールが喉を通り過ぎる音がこっちまで聞こえる。また懲りずに無理して一気に飲んでいるみたいだ。

「よーし、じゃあ幼馴染くん。今日はとことんあたしの愚痴に付き合ってもらうからね。覚悟しなさいよ」

 こうして石川は三本目のビールに突入することになる。そしてそのビールの蓋を空ける音は、僕には石川の愚痴が始まる開始のファンファーレのように聞こえた。



 石川が話した愚痴を要約するとこうだ。
 先々月、石川は友達数人と街へ遊びに行ったときに男数人組にナンパされたらしい。そして、それがキッカケでその中の一人と付き合うようになった。
 つい最近まではうまくいっていると思っていたらしい。ただ会えるのがまちまちだったり、時たま用事が重なったということでデートがキャンセルされたりとなんだかなー、とは思っていたらしいが。
 でも、最近になって問題が発生した。
 石川が本屋から出てくると、向かいの道を彼氏が知らない女と手をつないで歩いているじゃないか。
 ちょっと、待て。といった感じで二人の後をつけてみると、あろうことか二人はそのままホテル街へと消えていったのだった。
 ショックを受けた石川はその勢いで友達に電話したらしいのだが、そこでも一波乱。

『ああ、アンタの彼氏? 私もケー番聞かれたんだけど?』

 友達の情け容赦ない言葉は石川にダブルショックで駄目押しをかけることになる。
 で、さっき。というかここに来る前らしいんだけど、その彼氏にそのことを問い詰めるとあまりにも想定外な答えが返ってきた。

『俺はお前のことを本命だと思ったことねーよ。あくまでもキープだ、キープ。別にショック受けることないだろうよ。お前だって随分いい気持ちしたんだ――』

 最後まで聞くなんて石川に冷静さがあるわけなく、途中でぶちきれて思いっきり水をぶっ掛けてさらに両頬を三周するくらい張り手をして今に至る――というわけらしい。



「――で、結局二股だったんだ」
「ううん、四股。あたし以外にもあと二人キープがいるみたい。しかも本命の子って九才下の高校一年だって、人を馬鹿にするのにも程があるわよっ!」

 僕が簡潔にまとめてみると、本当の結論は結構かなり斜め上に飛んでいたみたいだ。
 騙されていたことが本気で悔しかったみたいで、また一気にビールを空ける。
 それにしても石川のビールを飲むペースは話を続けている間も変わらない。さっき開けた缶で七本目、僕はまだ二缶目すら開けていないけど、石川が飲んでいるの見ているだけで酔ってきそう。

「でも、石川だってまだお試し期間だって言っていたじゃないか。本気にはまだなってなかったんでしょ」
「うんっ。――って、いや、あのっ、まあ……」
「ははっ、僕の前なら強がらなくてもいいよ。石川のことは大体知っているんだから」
「う……」

 返答に困り、石川はポテトチップスを口に咥えたままあさっての方向に目を背ける。多分、なんて返そうか考えているだろう。
 多分考えていた時間は数秒くらい。結局石川は強がるような笑顔を浮かべるのだった。

「あ、あはは。やっぱ中田には嘘つけないよね」

 自分の弱さを見せないようにするだけの強がり。今の石川の態度は幼馴染の僕にはそうとしかとれなかった。
 これに懲りて少しの間恋愛から離れるか、と考える人はいるかもしれないけど、石川は今日のことを懲りずにこれからも誰かと恋愛をし続けるだろう。
 なぜなら石川は『本命探し』をずっと続けているのだから。




 それから時間にして二時間ぐらい。もう少し言えば時計の針が十二時を過ぎるまで僕と石川は飲み続けた。
 でも消費されたアルコールの大半は石川の胃に消えていって、その代わり僕がしたことといえば酔っ払って気持ち悪くなった石川の介抱ぐらいだったけど。
 今、石川は座卓に顔をのせてへばってる。さっき二回目の嘔吐をしたところだから大分ムカムカは消え去ってはいるかもしれないが、やっぱりまだ気持ちは悪いんだろう。
 でも、吐いて楽になったからといってまたアルコールに手を出す石川にはなんとなく凄さを感じる。流石に今はビールじゃなくてZIMAをチビチビ飲んでいる。

「明日――って、時間的には今日か。石川バイトは休み?」
「うん、そーだよ。中田はー?」
「大学にレポートを提出しに行くぐらいだよ。……ほら、ずっとアルコールばっか飲んでるんじゃなくて少しは骨休み」
「あんがと」

 僕からボルヴィックのペットボトルを受け取るとそれを一口だけ口につけ、またへばった。
 そんなにきついなら最初から馬鹿飲みをしなければいいのに、と思うのだけど。

「石川はどうするの?」

 カクテルバーを飲みながら僕は石川に聞いてみる。
 明日、というか十時間後ぐらいには提出しないといけないレポートがあるのでその辺の事は聞いておかないといけない。

「あたしはこれから二十四時間耐久アルコール祭りよ。今夜も付き合ってもらうからね、中田覚悟しなさいよー」

 返ってきた答えは予想外も想定外過ぎていた。

「こ、今夜って。まだ今日の夜が終わっていないのに、もうそんなこと言うの」
「ふふふ、失恋の痛みは三日三晩続くものなの」
「はぁ、わかったよ。でも途中にレポートを出しに抜けてもいいよね」
「それぐらいは構わないわよ。あたしはここで飲み続けているだけだしー」

 気づくと石川に渡したボルヴィックは空になっている。
 やっぱりアルコールだけを飲んでいるときついんだろうな。

「もう少しノンアルコールで飲む?」
「ううん。次はカクテルバー」
「はいはい」

 わがままな注文を聞いてから注文の品を持って石川の元に戻ってくると、石川はカラのペットボトルの口を咥えながらへばってた。

「はい、お待たせ」
「ん。……ねぇ、中田ー」
「何?」
「あたしってさー、ドラマや映画みたいな情熱的な恋愛とかって出来ないのかなー」

 それは今日初めて聞いた石川の弱音だった。
 二股……じゃなくて四股かけられたことには弱音を吐かなかった石川が吐いた弱音。
 でも、この弱音は毎回失恋するごとに吐いていた決まりごとの弱音だったりする。

「そんなことないよ。きっと石川にはいい相手がいるよ」
「そーかなー」
「うん」
「でもね、今度こそ――、次こそ――っていっつも思ってるのに……」
「うん、残念だったね。いつも石川は頑張ってるのにね、ホントに」

 石川はホントにいつも頑張って恋を見つけて、頑張って恋愛をしている。でも、その恋愛の結末は報われないものだから、いつも悲しい思いをする……その繰り返し。
 そんな風に大変な石川に対し、僕ができる事はほとんど決まりきっている。
 愚痴を聞いてあげたり、一緒に飲み明かしたり、それに――

「ったく、それもこれも中田のせいなんだからね」
「……うん」
「あんたを幼馴染に持ったのが運が悪いんだから」

 そう言って石川は自分の手を僕の手に絡ませ、背中を僕に預ける。
 これが石川に恋人が出来ない理由だとなんとなく分かってる。でも、それを僕たちは直そうとも、考えようともしない。
 案外小さい石川は僕の胸の中に丁度いいくらいで納まる。鼻の下辺りにちょうど頭部がきて僕の鼻腔をシャンプーの匂いがくすぐってくる。それが心地よくて、それに日常過ぎて。

「あんた以上じゃないと誰も『恋人』って思えられないあたしになったんだから――今日も慰めてよね」
「……うん、わかったよ」

 僕が言ったこの言葉は合図にして僕は石川を抱きしめる。そして、キスをする。
 口の中で絡み合う二つの舌。お互いでお互いの舌を突きあったり、吸いあったりして感情を高ぶらせる。
 絡み合った手は握り締めるという言葉なんて似合わないくらい強く握りあう。それはまるで手の先でキスをしているような錯覚。

「優しくしてくれないと、許さないから」

 口の中で呟く魔性の呪文。
 きっと僕はこの魔法に前からかかり続けていたんだ。




 決して僕たちは恋人同士ではない、ただの幼馴染。でも、こんな関係はずっと前から続いてる。
 けど、むしろこの関係のほうが先だった気がしてならない。



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