case 2 藤原さつきの場合


 ふと、あたしは上を見上げる。
 夜空は真っ暗で星々の瞬きも見えなくて、代わりに見えるのはネオンの光だけ。
 そう、繁華街で見上げる空は夜でも無意味にネオンで明るくて、あたしは本の中でしか星を見たことは無かった。
 七月七日の七夕も十二月二十五日の聖夜も、この街の夜空には星は姿を現さない。


「……たことないかな?」
「――えっ?」

 あたしの肩に手を乗せているおじさんが呟いていた。
 ネオンの明かりにまみれた空を見ていたあたしにおじさんの言っていたことなんて耳に入っているわけ無い。

「流星雨だよ、流星雨。ずっと前に話題に上がったりしてたでしょ」
「あ、ああー。見てない――っていうか知らない、そんな昔のこと」
「そ、そうなんだ。じゃあさ――」

 おじさんは髪の毛と同じくらい足りない話題で色々とあたしに話しかける。
 これからすることは決まっているのに、脂ぎったおじさんが何ムード出してんだか、あんまし理解できない。
 四枚の諭吉さんであたしを買ったからって恋人ムード全開にされてもこっちも困る。
 繁華街を巡回しているお巡りさんにでも見つかったら洒落にならない。
 恋人プレイがお望みならいくらでも別の場所でしてやるから今ぐらい黙っていろよ、おじさん。
 でも、そんなあたしの気持ちを知らずにおじさんはあたしにどんどん話しかけてくる。
 これじゃあ気持ち悪いおっさんだよ、まったく。
 お金さえ貰わなきゃ、絶対についていかないね。いや、今度からはお金貰ってもついていかないかも。

「それよりも早くホテルへ――」

 そう言って、前を向いたら息が止まった。
 知っている制服。知っている通学鞄。知っている髪形。知っている顔。知っている――

「……遠藤……?」

 クラスメートの男子に見られた。
 その先がホテル街だと、誰もが知っている路地へあたしと親子ほど年が離れた、あきらかに援交だとわかるおじさんと一緒に入っていくのを――





 昨日の繁華街で見かけてしまったクラスメートが夢にも出てきて寝起きは最悪、目の下は隈だらけ。
 朝、あたしは学校に登校するのが憂鬱だった。
 学校に登校すれば嫌でもクラスメートの遠藤に会ってしまう。
 もしかしたら、遠藤はあたしに昨日のことを聞いてくるかもしれない。
 そう思うと、憂鬱になってくる。
 だったら、学校をサボってしまえばいいと思うのだが――

「いいんちょー、藤原委員長ーっ!」
「何だよ、もー! 大声で呼ばないでよっ!!」
「ライティングの問題集解いてある〜?」
「お願い、貸してちょうだいっ! もう、委員長頼みなのっ!!」
「えー、またぁ? あんまし期待しないでよ、間違っているかもしれないんだからっ」

 夜、おじさん相手に援交をしているあたしだが、学校ではクラス委員長。シッカリ者の優等生、で通っている。
 そんなあたしだからこそ、おじさん相手に援交をしているなんて誰も知らない。
 そういう見た目真面目なあたしだからこそ、おじさん達からは高く絞れるんだけど。
 だけど、それは昨日までの話。
 あたしはライティングの問題集をクラスの女友達に手渡してから、一人の男子の席に視線を移す。
 視線の先の彼はなんかの本を読んでいた。
 遠藤一彦。クラス番号六番。帰宅部でどこにでもいるようなクラスメート。
 一年のときから同じクラスで、掃除やら何らかの行事とかその他もろもろでたまに話す。そんなクラス友達だと思っていた。
 それだけど、今は――なんとなく違う。
 問題集を借りに来たクラスメートに「後で机の上に置いといて」と伝言を残すと、あたしは彼の席へと向かった。
 緊張で喉がからからになる。
 昨日のことで彼に何を言われるかなんて考えると、頭が痛くなる。彼の席に向かうまでの間は無言と微妙な恐怖だけがあたしの中に入り込む。

「あの……遠藤」

 意を決したあたしの声は明らかに震えていた。
 それはちょっぴり滑稽で、あたしの心の中で少し苦笑が生まれる。

「えっ?」

 遠藤は読んでいた本から視線をはずしあたしを見る。
 視線はいつもと変わらないように見えたけど、あたしにはどうしても差別と侮辱の視線にしか見えなかった。
 昨日。
 ――そう、昨日。彼があの場面を見てしまったというだけであたしは彼に変なフィルターをかけてしまっている。
 なんだか、自分が汚いものになってしまったみたいで嫌だ。

「あのさぁ、昼休み、さ。……ちょっと、いいかな?」

 読んでいた本を机の中にしまいつつ、遠藤はあたしの問いに普通な感じで答える。

「昼休み? ああ、別に構わないけど」
「お昼ごはん食べ終わってからでいいから、下駄箱のところで待ってる」
「……ああ、分かった」

 遠藤の返答をシッカリと耳に入れてからあたしは自分の席に戻った。
 戻るなり、友達から「委員長、遠藤にコクるの?」とか「委員長って、ああいうのがタイプなの?」とか「私も遠藤狙っていたのにー」なんて、冷やかしにも似ている言葉の雨あられを受けた。
 別にそんなんじゃないって。
 喉まで出かかった言葉だけど、口を通ることは無かった。
 「そんな深い意味じゃないよー」と、苦笑いと一緒に軽く否定してみるけど、予想したとおり周りは信用してくれない。
 本当にそんなんじゃないんだよ。あたしから見れば、今の遠藤はとても怖い存在なんだから。
 恋とか愛なんて意味ない言葉なんだよ。
 あたしがしていたことを彼から広がらないかが心配なだけ。
 そんな悪循環の考えを頭の中でグルグルさせて、昼休みを迎えた。
 一限も、二限も、三限も、四限も彼のことで頭がグルグル。
 最悪、彼の口封じに自分の身体を差し出すことも考えた。
 冷静になって考えて、援交している自分だから身体なんてどうってないやって考えにたどり着き、逆に自分が情けなくなって授業中涙を抑えることで必死になった。
 やだなー。
 こんなにもあたしって弱い人間だったんだ。



 昼休み。
 下駄箱でたたずむあたし一人。
 内と外から聞こえてくる喧騒がやけに耳に入り、心が痛んだ。
 痛い心は誰かの所為ではなくて、全て自分。
 廊下を通り過ぎてゆく「委員長」の声もあたしの心をさらに痛ませる。
 こんなときにも纏わりつく優等生の殻がものすごく不愉快だった。
 下駄箱に着いてから少したったと思い、腕時計で時間を確かめる。
 十二時少し過ぎ。昼休みに入って十分も経ってない。
 時計から視線を外して、途中購買で買ったタマゴレタスサンドを袋から取り出してかぶりつく。
 マスタードマヨネーズの味わいが口ん中に広がる。
 もごもごと五、六回噛んで飲み込む。
 レタスのシャキシャキ感もタマゴの甘みも無くて、それにぱさぱさのパンで閉じられたしょっぱい百八十円だけど、なんとなくあたしはこのサンドが気に入っていた。
 味が好きだとか、自分に似ているからとかなんて崇高な理由じゃない、ただなんとなく。
 なんとなく日々を過ごして、なんとなく街に繰り出して、なんとなく援交をしているあたしにはちょうど良い。お似合いだ。
 そんな自虐的なことを考えてもう一口。へたれたレタスが口に引っかかり、そのままビローンと出てくる。
 啜るように食べるのは嫌だったから、残りを一気に口に押し込む。
 結果、口の中がもごもごするから買っておいたリプトンのレモンティー流し込む羽目になった。
 思いっきり飲み込んだから「けふ」って、濁音無しのゲップが出てしまった。良かった、周りに人がいなくて。
 遠藤が来るまでの時間。残ったレモンティーをストローでチューチュー飲みながら、下駄箱を背もたれにして待ち続けた。
 五百ミリリットル入っていたレモンティーも残り僅かになったその時、彼の姿が見えた。

「……待った?」
「あ、遠藤。ううん、別に」
「で、話って何?」
「ここじゃ何だから……一目のつかないところでもいいかな? 自転車置き場とか、さ」
「別にいいけど」

 無言のまま上履きから靴に履き替えて場所移動。
 昇降口を出て、中庭を通る。その後、よく分からない銅像の脇を通って、到着したのは少し薄暗い自転車置き場。
 こんな辺鄙なところで昼食を取る奇特な人はいるはずも無く、基本的に静か。
 たまに遠くから聞こえてくるのは、外で遊んでる生徒達の声。
 あたしはそのまま自転車置き場の中に入ると、外からは見えにくいところまでずんずんと向かった。
 遠藤も特にしゃべることなくあたしについてきてくれる。
 で、校舎側から死角になっているところまで来ると足を止め、ちょっぴり勇気を振り絞って彼の顔を見ないまま、あたしはあのことで口を開く。

「あ、あのさ。昨日のこと何だけど――」
「ああ。援助交際をしていたこと?」

 昨日の夕飯はカレーライスでした、そんな日常会話的な感じで彼は言う。
 だけど、その感じがやけに耳に残って――彼に恐怖を感じた。

「……お、お願い」
「何を?」
「援助交際をしていること。お、お願い、みっ、みんなに言わないでっ!!」

 言っていて、涙、出た。
 自分の何かが潰れてゆく、壊れてゆくみたいでいっぱい涙、出た。

「あ、あたし、願い……」

 肩が震える。
 後ろにいる遠藤が遠藤じゃないみたいで、凄く怖かった。
 それだけど、彼は一つあたしに聞こえるくらいの溜息をついて、あたしの予想とは正反対の言葉を言った。

「……言わないよ」

 その言葉に振り向く。
 遠藤の表情は不愉快とも無表情ともとれない、明らかに無関心の表情だった。

「だって関係ないだろ。他人が何をしようとしてもそれは他人の勝手だし、俺がとやかく言うものでの無いだろ」

 あたしの姿を視界の片隅に置くくらいの目線で、彼はそう言い切った。

「話、それだけ?」
「えっ、ああ……うん」
「じゃあ、俺、教室に戻るわ」

 遠藤はそのままあたしなんか見向きもしないで、校舎の方向へと歩いていった。
 あたしはそれを黙って見送った。見送るしかなかった。
 だって、彼の言葉があたしの足に杭を打ったみたいで動くことが出来なくなっていたのだから。

 結局、五時限目の予鈴が聞こえるまで自転車置き場の片隅で立ち続けていた。
 どうしてここから動くことを忘れてしまったのは判らない。
 でも、一つだけわかっていることがある。
 それは、遠藤の「他人なんて関係ない」という言葉が、あたしの中で嫌になるくらい響き続けたことだった。



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