case 1 坂下宮古の場合


 昇降口を抜けて、階段を早歩きで駆け上がる。
 二階、三階と通り抜け、私のクラスがある四階まで一気に行く。
 多分、今の私の雰囲気はかなり怒っているだろう。
 私の額はしわが寄っていて、見れたものじゃない顔になっているだろう。
 そんな顔を人に見られても気にしない。
 気にするもんか。
 今の私にとって大切なのは、私が向かうところにいるであろう一人の人物。

 むかつく。
 ああ、むかつく。むかつく。むかつく――

 私は、心の中に潜んでいる気持ちを抑えつつずんずんと歩く。
 制服のリボンが揺れる。肩にかけた鞄も揺れる。
 そして、私が歩く道のりで前から歩いてくる人たちは、私の顔を見て道をよけてゆく。
 東校舎を抜け、渡り廊下を歩き西校舎。
 前に見えるは目標である2−Dの教室。
 苛立つ心を抑えつつ、私はその教室のドアを開けた。

「まずは、メールアカウントの設定だな。それはコントロールパネルを開いて、ここの設定を――」
「わぁー、超助かります先輩。以前使っていたプロパイダから変えたから、ビミョーに設定がちがくてぇー、超困ってたんですよぉー」

 居た。
 予想したとおりここにいた。
 けれど、彼と彼が話している女は私がドアを開けたことに気づかないまま。

「隆行っ!」

 気づかない彼に痺れを切らした私は、いらつきとむかつきを込めて彼の名前を呼ぶ。
 その声でやっとドアの前にいる私に気づいた彼は、ごく自然、当たり前のようにいつもと同じく私を呼ぶ。

「おー、宮古」

 そう、私がむかつくのは――好きだってこと。





「ねぇねぇ。一体全体なんなのよ、あの女〜」

 後ろからついてくる隆行に向かって、私はちょっとした苛立ちを愚痴に込めて言う。
 でも、彼は私の気持ちに気づいているのか、いないのか。
 いつもと同じような口調とトーンで私と話す。

「なにって……クラブの後輩だよ。つい最近、新しいパソコンを買ったばっかで、よく分からないって言うから相談に乗ってただけ」
「ふーん。それでその『相談』に夢中になっちゃって、私のことを忘れていたわけ。ねぇ、私がどれくらい隆行のことを待っていたと思っているのよっ!」

 あまりにも、隆行が私の気持ちを分かってくれないから、少し拗ねたように言葉を吐く。
 頬を膨らませて、プイっと顔を明後日のほうに向ける。
 私が怒っているという事を、少しぐらいわかって貰いたい。
 歩く歩幅を少し大またに、そして早足になる。
 彼がどんな風に今の私を見ていてくれるかは分からない。だけど、ちょっとは拗ねて彼を困らせたい。
 本人は自覚は無いかもしれないけど、彼の存在は私に苛立ちとむかつきの感情を生ませる。

「――!」

 少し、隆行のことについて考えていたら、突然私の右手になんかの感触が生まれる。
 気がつくと後ろにいたはずの彼は私の隣にいて、なおかつ私の右手を握っていた。
 彼に握られたところから熱があふれ出す。
 それに、ちょっと拗ねていた自分の気持ちもその熱で溶けていったみたい。
 彼にドキドキを悟らせないように、少し下を向く。けれど彼は私の耳元に顔を近づけると、周りに聞こえないようなホント小さな声で、そっと呟く。

「怒っている顔も……カワイイ」

 瞬間、あふれ出した熱が腕を伝い、体中を駆け巡り、頬を腕を胸をどこもかしこも、赤く火照らす。
 頬が赤く熱くなっているのが分かる。
 手のひらが汗でにじんできているのが分かる。
 胸の奥が苦しくなるのが分かる。
 ドキドキが止まらなくなってきているのが明らかに分かる。
 だから、その気持ち正直に私も彼の手を握り返す。

 それでも私の中のむかつきは消えない。
 何故かって。
 それは隆行が私にほれている、というわけじゃなくて。
 私が隆行に完璧ベタ惚れという現実にむかつくのだ。
 言っちゃあ悪いが、私ははっきり言ってモテる。
 どんなときでも、男子は私に優しくしてくれるし、世の女性が男子に不自由していようが、私には関係ない問題というくらいにモテる。
 言うならば、この世に生を受けてきてからず〜っとモテていた。
 それに女子にも嫌われることも無かったし、これといって人間関係にも問題を抱えたことも無い。

 だけど彼は休み時間や昼休み、ヒマさえあればマンガ、アニメ、ゲーム、パソコンの本を読み漁っているような奴。
 正直最初の印象は「うっわ〜〜、オタク」ってな感じで、今思えばものすごく最悪なものだった。
 別段、彼には興味も何も沸かなかったし、他の男子や女子の友達と話していることが楽しかったから、彼とは接点は無いだろうなぁ、とその当時は思っていた。
 思っていたのだが――



 その時、彼はいつもと同じように本を読みふけっていた。
 私もいつもと同じように彼をオタクと通り過ぎようと思っていたけど、その日は何か違った。
 ただ普通に本を読んでいる彼。
 なぜかその日だけ、彼が読んでいる本が凄く気になった。
 気になったら最後。そう思った次の瞬間には自分の席を立っていたし、色々と考えるのも忘れるくらい彼の席まで一直線。

「何読んでるの?」
「ちょっとシリアス入った恋愛ものの小説」

 私の問いかけに彼は本から視線を外さずに答える。

「それっておもしろいの?」
「面白いよ」
「……ふーん」

 その相槌に、彼は読んでいた本をパタンと閉じると、すっと私の前に差し出す。

「なら、読んでみるか?」

 手渡された『Deep Love』というタイトルの本。
 装丁はわりかし綺麗で、ちょっと分厚い本。
 そんなつもりで声かけたわけでもなかった。けど、渡された本をつき返すのもなんだった。

「そ、そう。じゃあ、読んでみるね」
「返すのはいつでもいいから」

 そう言って彼は、机の中からもう一冊の本を取り出してまた本の世界へと入り込んでいった。
 渡された本を胸に抱きながら「やっぱオタクだよなー」と、心の中で思いつつ、自分の席へと戻る。
 視線を彼に移してみる。やっぱり、本を読んでいる彼。
 その彼と本の間で何度か視線を移動させると、なんとなく机にごろんと顔をつける。
 ……うーん。絵の無い本って少し苦手なんだけどなー。

 とか、なんとか言っていたけど、家に帰って勉強する優等生でもないわけで、暇つぶしにちょうどいいかと思い自室でごろごろしながら借りてきた本を読む。
 やっぱり、絵の無い本は苦手。
 少し溜息交じりでぺらぺらと本を読み進める。
 んで、ちょっぴし飽きが入ってきた本の中盤あたり。

「……ん」

 読んでいた本の文字が急に動き出す。
 活字が絵になって紙面をにぎやかにさせる。
 字を超えて登場人物が歩き出す。字を超えて映像が目の前に広がる。

「んん〜〜っ!!」

 それが、初めて絵の無い本を面白いと思った瞬間だった。


 次の日。
 私は一目散に彼の席へと向かった。
 教室のドアを開けて、真っ直ぐに彼の席に向かう。
 彼はあいも変わらずに朝でも本を読んでいたけど、私が席に近づくと本から視線を外して、私を見つめる。

「……よお。どだった、本は?」
「お、おもしろかった〜〜〜っ! もう、展開とか凄くてー、それにレイナが超かわいくて、超かわいそーで。それから、それから――」
「ほお」

 彼は私の言葉に満足したのか、鞄から一本のDVDを取り出す。

「この映画見てみるか?」


 んで、手渡されて次の日。

「超かんどーっ! 超スゴーイ、超泣いたーっ!! 少し怖いシーンとかあったけど、それもカンドーッ!!」
「ほほお」
「ねぇねぇ。他に何か凄くいいものない? 私、超知りたいんだけど?」
「だったら、このマンガ読んでみるか?」

 それで、渡されたマンガ。
 読んだ。
 凄く、面白かった。また、カンドーした。


「このゲーム――」


「このアニメ――」


「この――」



 ――そして、完璧にハマっちゃって今に至るわけ。
 単純に彼の持つ世界に私が完全に惚れ込んじゃって、その世界をもっと知りたくて彼のそばに居る。
 傍から見れば、彼と付き合っている女の子と周りは見るだろう。
 ……まぁ、確かに付き合い始めて、すでに二ヵ月半は経っているわけなんだけど。
 恋人同士ということで、彼とそう言う関係にいるわけだから嬉しい。
 だからこそ。恋人という関係だからこそ、私を悩ませる事柄があるわけで――

「おお、あったあった。……え、しかも初版、らっきーっ!」

 いつも立ち寄る古本屋。
 そこでおもしろそうな本を探すのが、彼と私の帰り道の基本。
 私は基本的に彼が本を探しているのを見ているだけだけど、その時の彼の子供のような笑顔を見ているのが凄く楽しい。
 この笑顔だけは学校にいる女子連中には見せたくない。
 私だけが見れる、彼が童心に返った笑顔。

「それおもしろいの?」
「保障付き。読み終わったら回すよ」
「わーい。超楽しみー」

 手を合わせながら、彼に近づいて彼の顔を覗き込む。
 そして、ドキッとした。
 彼が私を見つめるその視線は、何か言いがたいけどなんというか……えっちだった。

「宮古」

 彼の右手が私の背中、肩甲骨の辺りを触る。
 触られた所から熱が疼く。
 少しずつ、少しずつ彼の指が上から下へと下りてくる。
 撫でられるような、愛でられるような、やさしくてゆっくりとした服の上からの愛撫。
 それだけで、心臓は十六ビートを奏で出して、私の身体を熱くさせる。
 指が腰にまで到達。
 そこから広がる――ドキドキ。

「……かわいい」

 ぼそり、と私にしか聞こえない彼の声。
 それすらもドキドキを増させる愛撫になる。
 じわり、と下腹部の奥のほうから湧き出る快感。
 とろけ溢れるように、ドキドキは奥から存在感を出してくる。
 ゆっくりと下ろされる、指。
 腰はとっくに過ぎ去って、指は私のお尻までくる。

「や……」

 けれど、もっと奥まで――と、思うのだけどそれ以上は彼は触れてこなかった。
 恥ずかしいけれど、彼にならもっと触れられたい。
 どうせなら――抱かれたい。
 それなのに彼は唐突に触れるだけで、後は何もしない。
 そうなのだ。
 彼に対して私が悩ませる理由。
 それは、彼が私を抱いてくれないことなのだ。


 私と隆行が付き合い始めてすでに二ヵ月半。
 キスは付き合い始めて二ヶ月目に一回だけしたけど、それ以降は無し。
 さっきみたいにいつも突然私の身体に触れてそれで終わり。
 それ以上は求めようとも、求めても来ない。全くといって、触れる以上のことはしてこないのだ。
 今まで付き合ってきた男は、すぐにキスを求めてきて、すぐに身体を求めてきた。
 だけど彼は違う。
 彼は何もしないわけではないけれど、今までの男とは違う。
 全部、全てが新しい、新鮮。
 だから、彼が私を抱いてくれないことがものすごくもどかしい。

 今日の帰り道。
 私と彼が通る道にはブティックホテルが立っていた。
 その横を通るとき、彼がこの建物の中に私を誘ってくれるという淡い期待を込めて彼の横を歩くのだけど、彼は私の期待なんて知らずに建物を通り過ぎてゆく。


 何時になったら――

 何時になったら、彼は私を抱いてくれるのだろう。



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