異人館で逢いましょう


 都会の喧騒と冷たさを如実に表したコンクリートジャングルの間を通り抜ける。
 通り抜けた先に見えるのは、四方をビルに囲まれひっそりと佇み、不思議な温かみとぬくもりをかもし出す赤レンガで造られたモダンな建物。
 最寄の駅から歩いて五分。来店していただければ、私マスターがお客様方にゆったりと流れる空間と、心の奥底からゆっくりと過ごせる時間を提供いたしましょう。
 ここはCoffee House『異人館』。
 素朴な珈琲の香りと人々の想いが緩やかに結びつく暖かな場所。





「ねぇ、マスター」私がミルを使って珈琲豆を挽いていると、カウンター席から一部始終を見ていたアルバイトの木野香くんが私を呼ぶので「なんだい?」と、手を休めず返答をした。
「うちの店って、お客さんが珈琲を注文するたびに豆を挽いてますよね」
「そうだね」
「でも、それだと手間とか時間がかかりませんか? しかもお店のミルって電動式のじゃなくて手動式のじゃないですか。ただでさえかかる時間がもっとかかっちゃいますよ」
 確かに、手動式は電動式に比べて挽くのに時間がかかってしまう。だからと言って、慌てて挽くと豆に熱が加わってしまい味が落ちてしまう。故により慎重に、より繊細に力を込めて挽かなければならない。
 今も木野香くんと話しているが、私の集中の先はミルのハンドル動かす自身の手。
「うん、確かに時間はかかるね。電動式のミルを使えば手間暇をかけなくて済む。お客さんにスムーズに美味しい珈琲をお出しすることが出来る」
「そうですよね。マスターも分かってるんじゃないですか」
「でもね」そこで少し言葉を切り、一呼吸あける。すると珈琲豆を挽く音が店内に鳴り渡り、静かな空間を淡い色で染め上げる。一呼吸あけた後、私は珈琲を挽くのを止め、ミルを見つめながら言葉を漏らした。
「手動式には手間暇をかけるだけの価値があるんだよ」
「価値、ですか?」
「珈琲豆を焙煎して、炒って、抽出して、淹れて、その全てに手間をかけるのには価値があるんだよ。価値、いや意味とも言うかな。その辺りの区別は難しいけど」
 そう、とても難しい。言葉では決して伝わらない。
 サイフォンのフラスコに沸騰したお湯を注ぎ、ロートに濾し布をセットし挽き終わった珈琲の粉を入れる。そして、最後にアルコールランプに火を点す。少しすると、フラスコに溜まっていたお湯が引力に逆らいロートへ上がってゆく。ひたひたに浸る粉。浸っていない粉は竹べらで優しく浸す。
 フラスコ内のお湯が全てロートに行き渡ったら、一分計りの砂時計をセットする。砂が落ち終わったらランプの火を消し、ロートに上がっていったお湯がフラスコに下がってくるのを待つ。
 一連のコーヒーを入れる手順。その手順が楽しいのか木野香くんはじっと私が珈琲を淹れるのを見ていた。
「そんなに楽しいのかい?」私が語りかける。「うん、何か化学の実験っぽくって。見てて面白い」と、木野香くんは返してきた。
 木野香くんの言った化学の実験は言いえて妙だと思う。昔から決まった淹れ方だけど、見方を変えればこれは立派な化学の実験だ。そういうのが詳しい人に聞くと、きっと空気圧とか浸透圧とか詳しく語り出すだろう。残念ながら私は化学は苦手なので説明は出来ないのだが。
 温めておいたコーヒーカップに出来上がった珈琲を注ぎ、ソーサーにのせる。そしてソーサーの側にクリーマーを添えて木野香くんの前に差し出す。
「マスター?」
「開店前のちょっとした休憩といったところかな」
「じゃ、遠慮なく」そう言い、木野香くんは角砂糖を一ついれミルクを半分注ぐ、そして静かにかき混ぜる。
 一口口をつけると木野香くんは、「美味しい」と小さく呟いた。BGMも何もない静かな店内だから聞こえる小さな声。
「それが私が手間暇をかけて珈琲を淹れる理由だよ」
「え、……美味しいの一言のため?」
 私はにっこり微笑み、「それだけじゃ二十五点かな」と採点する。
 他に何かあるのか、とハテナを頭にのせて考え込む木野香くん。その姿が年相応で可愛らしく、思わず笑みがこぼれる。
「むー、マスター。笑ってないで教えてくださいよ」
「それは参ったでいいのかな?」
「……どうせわたしはマスターほど珈琲に詳しくありませんよ」いじけたようにして木野香くんは珈琲に口をつける。
 やれやれ、少しからかい過ぎたのだろうか。
「そんなに難しいことじゃないよ。ほら、木野香くんもさっき言ってたでしょ『化学の実験みたいで面白い』って」
「……ええ、サイフォンは見ててなんとなく面白いですから」
「そういうことだよ」木野香くんのその何気ない言葉が答えなんだよと言うように、「木野香くんは気づいてないかもしれないけど、それが答えなんだよ」
 私の言い草にまだ木野香くんは分からないようだ。「サイフォンが答え?」と見当違いなところに注目している。
「そっちじゃなくて、私が言ってるのはサイフォンを見て、木野香くんが『面白い』と思ったことのほうだよ」
 木野香くんが疑問を投げかける。「面白いが、美味しいに繋がるんですか?」
「珈琲はね、舌で味わって美味しいだけじゃ本当の美味しさは伝わらないんだ。豆を炒る音に耳を傾けたり、焙煎される豆の香りに心を和ませたり、木野香くんのようにサイフォンを見て楽しんだり、と身体全体で珈琲は味わえる。その全てが一つになって、ようやく初めて珈琲の本当の美味しさが伝わると私は思うんだ。だからそのための手間暇なんだよ」
 最後の一口を飲み終わり、木野香くんが最初の疑問を思い出したかのように私に問いかける。「それじゃあ、ミルが電動式じゃなくて手動式な理由も」
「そう、電動式じゃ機械的な音で寂しいからね」
 そんな私の理由が面白いのか木野香くんは何故か笑みを浮かべる。
「ふむ。やはり、変なこだわりなんですかね」
「へ、何でですか?」
「いやね。木野香くん笑っているようだし」
「あ、あー。違いますよ、そういう意味の笑いじゃなくて。マスターの珈琲に対する想いって、子供みたいに純粋でなんか可愛いなーって思っただけですよ」
「こら。大人をからかうんじゃありません」
 木野香くんの飲み終わったカップを洗いながら時計を見る。午前十時四十分。開店まで後二十分。
「さて、もう一頑張りしましょうか。そろそろ飯尾くんも来る頃だろうし」
「はーい、マスター」
 洗い終わったカップを乾燥棚に置き、一伸びをする。木野香くんは、奥から箒とちりとりもってきて掃除を始めだす。
 今日もお客様の笑顔が見られるように、私も機材のメンテナンスに力を入れましょうか。





 無機質なコンクリートジャングルの中にぽつんと佇む一つのオアシス。
 都会の喧騒は忘れて、静かな時間を過ごしては如何でしょうか。
 ここはCoffee House『異人館』。
 珈琲の香りが人々の心と心を結びつかせる不思議な場所。




 目次  ろ「ろくな男じゃありません」