case 3 浅田可南子の場合


 夕方の六時を知らせるチャイムが図書室の中に響き渡る。
 わたしはその音を聞きながら、読んでいた文庫小説にしおりを挟んだ。
 周りであわただしく筆記用具を鞄に詰めるクラスメート達を尻目に、わたしは図書室から出る。
 リノリウムの廊下は電灯がついているけど、日が落ちている所為か少し薄暗くて、窓の外から漏れる月の光が存在をかもし出していた。
 あと少しで三年間通っていた中学を卒業すると思うと、ちょっとだけ寂しくなる。
 それに寂しくなるのは、通いなれた学び舎を離れるだけじゃない。
 幼稚園から一緒だった親友。小学校を一緒だった友達。それに中学で初めて知り合った友達。
 いろんな人と離れ離れになっちゃって、大半が知らない人のところに行くのがとても寂しい。
 そして何よりも――

「あれ? カナまだ帰ってなかったの」

 彼女――久美――と別れるのが、わたしには何よりも苦痛だった。





 わたしと久美こと篠崎久美が出会ったのは、小学一年生の頃だった。
 幼稚園からの友達は全員別のクラスになり、凄く心細かったわたしに、久美は最初に声をかけてくれた。その何気ないことがものすごく嬉しくて、それからわたしと久美はお友達になった。
 久美は頭がよくて、背が高くて、運動神経がよくて、女のわたしから見ても素敵な人。
 わたしがいじめられていたら、真っ先に助けに来てくれた。
 わたしが泣いていたら、真っ先に駆けつけてくれた。
 わたしが嬉しかったら、一緒になって喜んでくれた。
 嬉しいときも、悲しいときも、楽しいときも、ずっとずっとわたしたちは一緒。
 でも、ちょっとだけ不思議に思うことがある。
 何をやっても優れている久美が、わたしみたいな冴えない子と一緒にいてくれるのかな、て。
 それはいつもいつも思っていた、疑問。





「うん、ちょっと。家に帰っても、勉強しろってお母さんがうるさいから」
「そーなんだ。でも、受験日が近いから仕方ないよ」
「久美は推薦が決まってるもんね。ちょっと、羨ましいよ」

 久美はテニスの推薦で隣の市の私立校に進学が決まってる。
 でも、わたしは近くの公立校。
 中学を卒業したら、もう離れ離れ。

「でも、カナと離れ離れになるよ」

 そう言って久美はわたしの手を握る。
 温かくて、とても柔らかい手。
 その心地よさにわたしも久美の手を握り返した。

「遅くなるから、一緒に帰ろ」

 いつもどおりの笑顔。
 わたしも笑顔でいつもどおりの返事を返す。

「うん」

 手をつないだままわたしたちは昇降口へと向かった。
 誰もいない廊下に、わたしたちの声だけが響き渡る。





 久美は男女問わずに人気がある。
 テニス部の元エース。
 期末考査では毎回十番以内。
 ボーイッシュな髪形をしているけど、とっても綺麗。
 文武両道で容姿秀麗。
 わたしは久美のことが好きだ。
 その『好き』が恋愛のカテゴリーに分けられるかは自分でも判らないけど、それでもわたしは久美が『好き』。
 久美のことを好きと言いながら、学校の内外で彼氏を探してくるクラスメイトとたちとはわたしは違う。
 小学校の頃から、いや、出会った時から久美が好き。
 それは男子よりも、女子よりも、自分よりも。

 そんなわたしの気持ちを知っているのか、久美はわたしと一緒にいようとする。
 友達の誘いも、男の子の誘いも全部断って私のそばにいてくれる。わたしに触れようとしてくれる。

 なんで?

 わたしみたいなどこにでもいるような普通な子を、久美は特別だと思ってくれるの?

 わたしは久美に触れられるべき存在なの?





 手をつないだままわたしたちは校門をくぐる。
 学校のほうからはまだ声が聞こえてくる。多分、運動部の子たちの声なんだろう。後片付けをする物音が声にまぎれて聞こえてくるし。
 そんな音が気になり、ちょっとだけ振り返ったわたしに久美が「どうしたの?」って声をかけてきた。
 わたしは「なんでもないよ」って普通に返す。ほんとになんでも無いことだから。
 ただ、こうやって久美と一緒に帰る日々が一日ごとに無くなってゆくのは少し、いや、凄く寂しいけれど。

「空、星が見えるね」
「え」

 久美が唐突に声をかけてきた。
 それにつられてか、わたしは空を見上げる。
 絨毯が広がっていた。
 星空の絨毯。それはとてもとても綺麗で、思わず感嘆の溜息が漏れた。

「きれい、だね」
「うん、凄くきれい。あたし、星って凄く好きだから」
「わたしも好きだよ、星」
「一緒だね、カナ」
「そうだね、一緒」

 歩くのを少しの間だけ止めて二人で空を見上げる。
 空一面に広がる星を見ながら、色んなことを考える。

「ねぇ、カナ」
「何?」
「……ちょっと公園でお話しない?」

 星を見上げながら久美はそうわたしに問いかけてきた。
 星のひとつがきらりと流れる。
 ちょっとの間だけでも久美と一緒にいたいから、わたしの返事は決まっていた。

「うん、わたしも久美とお話したい」

 久美の顔を見ながら、わたしはしっかりとした声で返事した。
 わたしの返事を聞いて、少しだけ久美が微笑んだように思える。
 ほんの少しの微笑だけどわたしの心を射止めるには十分だった。





 公園の中心になる噴水の前の石階段。
 そこにわたしたちは腰を下ろした。
 目の前で水しぶきを上げる噴水は、公園の電燈にライトアップされてきらきらと光る。
 あの中で好きな人と抱き合えたらとても素敵なんだろうなぁ、と思うけど、冬もまだ絶好調なので風邪を引くこと間違いない。
 そんなことをたまに思いつつ、わたしと久美は色んなお話をした。
 小学校の思い出とか、最近あった面白いこと、共通のお友達の笑い話、それに親の愚痴とか。
 そして、気づいたら話が進路のことに変わっていった。

「ねぇ、久美」
「どうしたの」
「中学校を卒業したら、わたしたちあんまし会えなくなるのかな?」

 寂しさからでた言葉だったかもしれない。
 それは少しずつ卒業が近づいていくなかで、いつも思っていたこと。
 でも、久美はわたしの不安を払拭するように、当然といった感じでわたしの手をそっと握ってこう言った。

「んーん、そんなこと無いよ。あたしが会いに来るよ。カナに」
「あ……、うん、わたしも……」

 顔を真っ赤にして言うわたしに久美はクスクスと笑い声を上げる。
 中学を卒業しても、久美がわたしに会いに来てくれるといってくれた事は凄く嬉しかった。
 でも、その言葉でわたしの中に、以前から生まれていた疑問がまた湧き出てきた。

「ねぇ、久美」
「何?」
「久美はどうして、わたしに、……その、なんと言うか、わたしなんかに」
「そんなこと無いよ。カナにはいっぱいいい所があるよ。カナが気づいていないだけかもしれないけど」

 久美に私のことを褒められると、なんかくすぐったい。

「で、でも、久美は男の子にも人気あったし。でも、久美は男の子のお誘い全部断っていたみたいだし。その、なんて言うか、その……何でかな、って」

 何か言いたいことが分からなくなってきた。
 自分が言っていることにも統一性もなくなってきたし、話題も唐突になっている。
 こんなとき、わたしって馬鹿だなぁって本気で思う。
 それなのに久美は、自分で言ったことを慌てているわたしの手をそっと握ると、呼吸をするくらい当たり前のように、食事を取るぐらい当然のように、一言喋った。

「あたし、女の子しか好きじゃないから」

 一瞬、わたしの中の時間が止まった。
 久美は、女の子が好き。男の子よりも、自分よりも、……女の子が好き。
 握られた手が汗でにじむ。
 それはわたしの汗じゃなくて、久美の汗。

 わたしに出来る事は何?
 久美は心の中のことを話してくれた。
 だったら、わたしも思ってることを全部言うだけ。

「わたしは……男の子のほうが好き」

 わたしの手を握る久美の手がびくっとした。
 手に感じる汗の量も増えたように思える。
 だけど、わたしの答えはこれだけじゃない。

「……でも、今は久美のことが好きだよ」

 久美の顔に笑顔が見えた。
 告白した事は凄く恥ずかしかったけど、今の本当を言えた事に後悔は無い。

 その時、わたしの手から久美の手が外れた。
 手はわたしの手からわたしの頬にうつる。
 久美の顔がわたしの前に現れ、そして近づいてくる。
 近づいてくる久美の顔を見て、久美が何をしたいのかすぐに分かった。
 でも、そのことに嫌悪感も何も無い。
 ただ、久美がわたしにそうしたいと思ってくれることが凄く嬉しかった。
 少し恥ずかしいから目を閉じる。
 目の前に広がる真っ暗。
 それでも唇だけは敏感に感じる。空気も風邪も――何でも。

 そして、噴水のカーテンコールが広がる前でわたしと久美は口付けを交わした。
 久美の唇がわたしの唇に広がる瞬間、わたしの頬に一滴の雫がなぜか流れていった。





 公園からの帰り道。
 わたしたちはまた手をつないで帰路に着いた。
 手をつないで帰るなか、わたしは少し不思議に思えたことがある。
 どうして、わたしはあの時涙を流してしまったのだろう、と。
 理由は考えても知る事は出来なかった。
 でも、一つだけ大切な事は分かった気がする。
 恋することは人それぞれなんだって言うこと。
 そして大切なのは、好きな人の温かさを感じられる手があればいいということ。

 わたしは久美が好き。一番好き。
 今日この『好き』が『恋』と言うものなんだって初めて知った。



[END]